2008年12月1日月曜日

第12回出前委員会 in「生野」(2008/11/01~2008/11/02)

まちづくり委員会・情報委員会+南但支部 第12回出前委員会 in「生野」
               「生野のまちづくり・昨日・今日・明日―合併前後の取り組み」
 




  まちづくり委員会が主催する出前委員会も早や12回を迎えたようだ。平成11年(1999年)12月に出石で第1回を催し、龍野、赤穂、柏原、淡路(東浦)、伊丹、八鹿、豊岡、明石、北播磨(小野)、湯村と、年1回を原則として干支で言えば一周したことになる。

  今回南但支部に出前したのは、まちづくり委員会9名、情報委員会から2名、事務局2名。11月1日(土)に郷宿吉川邸を再生した「生野まちづくり工房井筒屋(国登録文化財)」に集合し、指定管理者「口銀谷の町並みをつくる会」事務局長の中井武四さんの案内で、まず口銀谷(くちがなや)地区を探訪した。中井さんは今日のディスカッションの地元代表パネラーでもある。「大阪出格子」や漆喰塗り、焼杉板を巡らせた家屋は、但馬では珍しい「赤瓦」や精錬屑の鋳型である「カラミ石」により、鉱山町独特の風情を醸し出す。一帯は1998年に兵庫県景観形成地区に指定されている。

 続いて鉱山施設を移築した三区公民館2階座敷で出前委員会を催した。但馬ブロック会員が加わり総勢26名による『気付き』の場の出現である。進行役は中尾委員、上山委員長と熊田支部長に挨拶を頂き、先ずはパネラーが夫々の取り組みについて報告。これを受けて森崎委員から問題提起がなされ、2時間を超えるディスカッションの幕開けとなった。
 パネラーは、旧生野町からのまちづくり担当である小笠原さんと北島さん(朝来市生野支所地域振興課)、生野のまちづくりコーディネーターを10年務める中井豊さん(中井研究室)、広域的な取り組みを進める県民局から角正憲さん(但馬県民局地域振興部商工観光・労働担当参事)と澤木正幸さん(中播磨県民局企画調整部「銀の馬車道」担当参事)、地元代表として中井武四事務局長と今年8月にまちづくりの組織連携を目指し設立した「NPOいくのライブミュージアム」の木原真一理事長である。
 ディスカッションの締めは、前委員長の野崎副会長が務めた。
 


■ 独特の地勢と気質が生み出した「旧生野町のまちづくり」
 朝来郡生野町は平成17年4月に同郡和田山町・朝来町・山東町とともに朝来市に合併した。周囲を山々に囲まれた海抜約300mの盆地状の町であり、生野峠の地名どおり分水嶺に位置する。但馬の南玄関ではあるが、明治唯一の直轄銀山であったがゆえ整備された「生野鉱山寮馬車道」(愛称:銀の馬車道)により、飾磨港を始めとする姫路との結びつきが強く、南の神河町と合併する案もあったと聞く。一方、生野銀山は明治22年から皇室財産となり、明治29年に三菱に払い下げられた。この際、地域としても巨額の分配を受けた歴史を持つ。その為か地域の結束は固く、地勢もあいまって生業として殆どの住民が田畑を持たない独特な地域である。平成14年3月には自治条例の代表格である「生野町まちづくり基本条例」を制定するなど自治行政において先駆的な役割を果たしたが故、平成の大合併に反対する意見も根強くあったようだ。


 パネラー陣が異口同音に高く評価するのが平成9年からの「地域づくり生野塾」の取り組みである。ワークショップ形式での合意形成を経て策定した総合計画を実践するため、町職員の約半数に辞令を交付して官民の枠を超えさせ、各種イベントに取り組んだ。官民の意識を対峙から信頼へ確実にシフトさせ、多くのまちづくりグループの活動に繋がっていることは見事である。今後、新たなる朝来市のまちづくりで、「生野塾」で培われた地域力がどのように変化し展開されるのか目が離せない。震災で注目を浴びた神戸長田真野地区のまちづくりが40年近く掛かったことを引用し、地道な取り組みに対するエールが贈られた。

■ 「これからの生野」と広域的連携のスタンス
 「鉱石の道」は養父市大屋町明延鉱山から朝来町神子畑を経て生野に通ずる馬車道の愛称である。「銀の馬車道」とともに生野を拠点とする近代化遺産への取り組みは地域を超えた視点が必要である。但馬と中播磨の県民局は関連する官民を巻き込んだ複数の協議会をここ数年で立ち上げた。一方、行政主導であり、また知名度も低く、夫々の想いがかみ合っているとは言えない。「道」ありきで「拠点」がなく沿道の各地域の住民の姿が見えてこない。「みち(道)づくりから、だち(友)づくり」が必要だ。といった示唆があった。

■ 進行中の大規模なハード整備にどう対処するか!
 しかしながら今の生野にとっては、なんといっても約9億円の「まちづくり交付金」による口銀谷地区のハード整備が大きな課題である。JR生野駅西口の整備や国道429号線の拡幅、産業遺産である「甲社宅」の修復や新たな町屋の買収による町並み整備、町並み環境整備事業による「トロッコ道」の延長など、人口4,800人の町は大きく変わろうとしている。「消化ゲーム」にならないよう、受け入れる地元として相当のマンパワーが必要である。井筒屋を拠点にした「銀谷工房」や「ひなまつり」「たなばた」は、女性グループの草の根的展開で町レベルでの成果を収めた。「予め用意された町づくりのシステムでは井筒屋運営の成功は無かった。」のである。商工会やTMO、種々の地域再生プロジェクトに係る組織の連携を目指す「いくのライブミュージアム」の役割は大きく、「口番所」や「生野ひいき人クラブ」などでの広域的な情報発信と収集に期待がかかる。地域と風土が育んだ、類稀な地域力を結集するため、「ランプを高く」かざしていただきたいと願うばかりである。

  翌2日(日)は情報委員会主催で朝来町の佐中千年家(つどい2008年4月号参照)、山東町の日下邸を見学し、無事全行程を終えた。